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第31号

2002年04月08日発行

さらば、「鈴木宗男」的なるもの!

京都府議会議員西田昌司


鈴木宗男衆議院議員の問題で政界ばかりか国民世論もが紛糾しています。鈴木衆議院議員はこの問題の責任を迫られ、先日自民党を離党致しました。鈴木問題の本質は戦後政治の抱えている問題を如実にあらわしていると思います。私も含め政治家は、自分の選挙区に一番関心があるものです。しかし、一方で自分の選挙区のことばかりを政治の場で取り上げる事は、利己的で自己中心的なことだというので、普通は”卑しさ”とか”恥ずかしさ”を感じるものです。つまり、普通は自分と自分以外のもの(言いかえれば私と公)との間のバランスを保つ事によって、政治家の行動は正常なものとなります。鈴木さんの場合は残念ながらこうしたバランス感覚が全く欠けていたということです。

 しかし、公とのバランスを欠いた我田引水的発想は、鈴木さんだけではなく、また、与野党問わず、戦後政治に蔓延していることではないでしょうか。例えば共産党お得意のばら色政策もその典型です。福祉や教育の充実を言うのは良いが、税金を払うのは嫌で、その財源は誰かが負担してくれれば良いというのでは、利己主義そのものです。共産党の例では、司直の場で罪を問われることは無いかもしれませんが、政治家としてモラル不足のそしりは免れないでしょう。

 このように考えると鈴木さんの事件は、「公の観点」が無く、「私の利益」の代弁ばかりが、あたかも正当な主張のように議論されてきた、戦後政治の抱える問題を浮彫りにしていると言えるでしょう。では何故、こうした「私」の利益の代弁者たる「政治屋」がこうまで蔓延してきたのでしょうか。それこそ、戦後政治が公的なものを如何にないがしろにしてきたかを表すものです。

 元々政治は何の為にあるかといえば、国民の生命、財産、名誉を守るためにある、と私は思います。ところが戦後政治はこの肝心の部分をアメリカに外注してきました。国防も、経済も、教育も、その根幹にかかわる肝心のものは、すべてアメリカに任せてきたのが実態です。この政治の根本が一切語られなくなったため、戦後、政治の場で話されることは結局、経済的利益の配分でしかなかったのです。鈴木さんのように地元の選挙区に如何に予算をつけるか、野党のように自分を支持する人々や団体に如何に予算を厚くするか。これらのことは形は違っても本質は同じで、どちらも自分の支持者のことしか考えていない、国のことなど考えていないということです。確かに目的と必要に応じて、利益を配分することも大切なことです。しかし、その元になる「公」のことを考えずに「私」のことがまかり通るようになれば政治が腐敗するのも当然です。

 「公」を考えない私利私欲の追求は、端で見ていても、大変醜く気持ちの悪いのもです。今の政治はまさにその典型です。同じことがマスコミにも言えます。ワイドショーに代表されるマスコミの報道も、視聴率が取れれば良いというだけが目的のようです。「社会正義を糾す」という司会者の言葉もそのお飾りに過ぎないのは誰もが感じていることです。田中角栄を今太閤ともてはやし、その舌の根が乾かないうちに金権政治家とこき下ろしたり、野村克也、沙知代夫妻にしても確かに本人にその責めがあるのは事実ですが、上げたり下げたりのあの報道の熱狂ぶりは一体なんだったのかといえば、「売らんかな」の一言に尽きます。これこそエゴイズムの典型で、テレビが公器であるという自覚が全く感じられません。このように、今の日本ほど「公」という言葉が存在感を無くした時代はかつて無かったのではないでしょうか。従って、これから本当に鈴木宗男的なものを政治の世界から排除するためには、まず政治に「公」という言葉を取り戻すことから始めなければならないのです。

 ところが、政治の場ではこれとはまるで方向違いの話しがされています。一部の議員の間では、今後こうした問題が出ないようにするために、国会議員が行政に接触する事を禁じたり、制限する方向で法改正をしようする議論がされています。全く馬鹿げた議論だとしか言い様がありません。これでは、官僚は、自分の所管の事柄も現実を知ることなく、蛸壺的な行政を行うだけに専念しろと言っているようなものです。これでは政治に血を通わせることも出来ません。また、民意を行政に伝える手立てが無くなってしまいます。問題は政治家が行政に関与したことが悪いのではなくて、その目的や程度があまりにも、私利私欲にすぎるということです。


結局は、政治家のモラルが問題になるのですが、これは、法律で罰則を強化してなくなるものではありません。政治家に一番求められるモラル、それは一体なんでしょうか。勿論、国民の信頼を得るためには清潔であるということも必要です。しかし、国民に信頼されて政治家は一体何をするのかといえば、国民の生命、財産、名誉を守るということではなかったでしょうか。これは言いかえれば、国家存亡の危機に、必ず国民を守ってくれるという究極の信託を国民は期待しているということです。まさに政治家の使命というのはこの一点に絞られると私は信じております。

今回の宗男騒動は、国民の究極の信託に応えるという政治家の使命を、鈴木宗男さん本人は元より、野党もマスコミも含めて果たせていないということを、私たちに見せつけたのではないでしょうか。もう一度、我々政治に携わるものが、政治家の使命として何をすべきなのかという、最低限のモラルに立ち返ること、これが一番必要なことであると私は思います。今こそ、その意味で「さらば、鈴木宗男的なるもの!」「さらば、戦後政治体制!」と国民みんなが大声で叫ぶときなのです。

保守って新鮮?!・・・涙

 Show Youをお読みの皆さん、「政論 〜保守の原点を問う〜」覚えていらっしゃいますか。そうです我らが西田昌司先生が以前に出版された本です。私は、普段は新聞と週刊誌程度しか読まない者なのですが、久々に骨のあるしっかりした本を読みたいと思い、前々からじっくりと読んでみたかった「政論」を、今年の元日に、読みました。読んでいる途中で、私は、何度か涙をこぼしました。本当です。「福祉の原点とは」の章がそのひとつです。西田先生が障害者施設を訪問された時の障害者を子供にもつ母親の話です。「この子供のお陰でここまで生きてこられました。私はこの子に生かされてきたのです。」「世間の人には想像も出来ないような苦労もしてきましたが、そのかわりに多くの人との心の絆、家族の絆、地域社会の人達との大変深くて太い絆を築くことが出来ました。」私は、福祉のうわべのことだけしか見ていませんでした。福祉の本質について私なりにわかってきたように思います。

 芥川龍之介の「杜子春」の話。西田先生がおっしゃるとおり、人の幸せがどこにあるのかということを考えさせられました。

 私には、8歳と5歳の子供がいます。最近の新聞の社会面に載るような、少年に絡んだ事件を見るにつけ、私は、父親の不在ということを感じます。父親の不在とは、父親が子供と一緒にいる時間が短いという表面的なものではなく、父親が子供と同列になってしまい、父親が父親ではなくなってしまったということが本質なのではないかと、私も思います。実際、ここ10年程はずっと不況ですので残業で忙しくて仕方がないという状況は、バブル経済真っ盛りの頃に比べたらかなり少ないのではないかと思います。父親が家にいる時間は多くなっているはずです。それなのにもかかわらず、父親の不在を問われているということは、やはり父親の立場がしっかりとしていないということではないでしょうか。父親が真の父親たらんとしていないのではないかと思います。私が、小学生の子供の父親参観にいった時のことです。自分の子供の学年、クラスとは関係なしに、授業終了後に保護者と先生だけでテーマごとに分けての話し合いが行われました。私は、「父親と子供との関係」というテーマの部屋に行きました。父親をテーマとしているににもかかわらず、実際には母親の出席者がほとんどでした。また、昨年9月の日曜日に、京都府の教育委員会主催だったと思いますが京都教育大学の教授を講師にした「父親について考える」という一般市民向けのフォーラムがあり、私は話を聞きに行きました。そこでも大半の出席者は母親でした。男性も何人かいましたが、ほとんどは小学校の校長先生のようでした。母性の回復も重要なことですが、男が、父親が、だらしなくなってしまっているということが、社会に悪い影響を与えているように思えてなりません。私自身そのようなフォーラムに参加してみようとするのは、自分自身がだらしのない人間で子供にどのように人生を教えていったら良いのかがわからないからでした。西田先生の「子どもたちに何かを伝えたいという生き方が、徳をつむことにより、親の人生にも輝きを持つことができる。」「子どもに対して伝えるべきものを親が持てるような生き方をする。また、精一杯子どもに伝えようとする。こうした子どもに対して責任を果たそうとする努力によって、実は我々大人が、本当の大人たり得る機会を与えられているのです。」の言葉を読み、私は、先生に救いの手を差し伸べられたような気持ちです。もやもやしたもの が、すーっと晴れたような気持ちです。いわゆる優しいだけのマイームパパではなく、親は親らしく、子どもと同列にならない父親になりたいと思います。

小学校でも英語教育が盛んになってきています。別に英語を幼いうちから習うということ自体は決して悪いことだとは思いませんが、何かが欠けているように思います。なぜ英語を習うのかを一言で表わしてしまえば国際人を育てるということだと思いますが、その前に忘れてはならないことがあると私は思います。国際人である前に日本人であるということです。日本人としての心、アイデンティティをしっかり持たずに国際人になろうとすれば、日本人でもない、アメリカ人でもない無国籍な国際人になってしまうのではないかと思います。近年の犯罪、事件を見ていると、ここは本当に日本なのかと思うことがあります。政治も経済も文化も西田先生のいうアメリカ教に侵され過ぎてはいないでしょうか。所詮、日本人は日本に住んでいる限り、日本人なのです。アメリカ人にはなれないのです。今の平成の時代にもう一度、日本人の心を取り戻しておかないと、日本に住んでいながら、日本人ではない無国籍な日本人、地に足のついていない日本人になってしまうのではないでしょうか。このShow Youをお読みの皆さんはほぼ全員が、京都にお住まいの方だと思います。日本人の底流に流れる心、文化、伝統が日本で最も残っているのが、ここ京都ではないでしょうか。1200年前から日本中に文化を伝播してきたのが京都ではないでしょうか。私たちは、日本人の心、文化、伝統をもう一度よみがえらせ、再認識するのに最適な地に住んでいるのです。日本人にも平成のルネッサンスが必要なのです。そのムーヴメントを作り出し得る地に私達は住んでいるのです。

私は、西田先生のこの本の題名を初めて見た時は、「保守」なんて古臭いタイトルだなと思いました。しかし、私はこの本を読んで、「保守」の真の意味がわかっていなかったということがわかり、自分自身恥ずかしく思いました。「保守」は、「保身」ではありません。真の「保守」とは、日本人の心を守っていくことだと思います。私は、この本を読み終えて、近年にない新鮮な気持ちになりました。「古臭い」どころではなく、すごく「新しく」感じました。「保守」についての本を読んで「新鮮」になるのですよ。不思議ではありませんか。上っ面だけのアメリカ教に支配された「●●改革」「××改革」「グローバルスタンダード(=アメリカンスタンダード)」等の言葉が政治に経済に、右を見ても、左を見ても氾濫しています。そんな中で、「保守の原点を問う」と題名にハッキリど出した本を出版された西田先生に心より敬意を表します。これから、日本はいやおうがなしに高度情報化、国際化はますます進んでいくことでしょう。だからこそ、日本人が、日本人の心を失わないように、意識して「保守」していく必要があるのではないでしょうか。そうしなければ、日本人の精神は分裂し,荒廃してしまいます。

この本を読んでいて私は何度か、出版した年月を見返しました。平成11年1月なのです。3年前なのです。変化の速い政治、経済においては、普通、3年前に書かれた本を読むとだいぶ古く感じるはずです。しかし、この本は全くそう感じさせませんでした。真の保守とは、日本人の心の奥底に元々潜むものを守るものであり、普遍性のあるものだからではないでしょうか。私は、このような本に出会えたことに感謝し、この本を執筆された西田先生に感謝の念で絶えません。 Show Youをお読みの皆さん、今度の週末にでも、是非ともお読みください。新鮮な気持ちになりますよ。

桑原尚史

「政論 〜保守の原点を問う〜」をご希望の方は西田事務所までお問い合わせ下さい。

羅生門の樋のひとしずく
羅城門の樋

この4月から、学校が土曜日も、完全に休日になるそうです。「学力低下が心配だ」「塾通いが増えるのでは」等々、どうもマスコミが煽っているように思えます。人間にとって、今まで経験したことがないことに遭遇すれば、不安な気持ちになります。これってあたりまえのことですよね。だからといって、文部大臣までもが、「宿題を出せ」と言ったとか言わないとか。果ては、「土曜日にも学校で補習を」なんてことも新聞に出ていました。これでは『学校五日制』って、何なんです。
 社会の情報化や経済のグローバル化で、高齢化や少子化による人口構造の変化で、今までの教育システムが大きく変化しなければ日本は生き残れない。そのために、今までの教育体系が、『生涯学習システム』として大きく変貌する必要があったのでは。学校の五日制もその流れの中に位置づくはずだと思っているんです。そして、学校は、子ども達が生涯学ぶための基礎基本をきっちり身につける場所。家庭では躾や生き方を親が身をもって教える。地域は、活動の中から生活の伝統や社会的価値を学ぶ場所。この役割分担をしていくために、『学校五日制』はあると思っています。
 これからは、なんでもかんでも学校に頼らず、親としての自信と誇りを持って、子どもに接しなければと思っているんです。親の背中を見て子は育つと言いますよね。学校と家庭や地域との役割をはっきりさせ、親としての役割を、もう一度見直さなければと思っております。
 そのために、土曜日は子どもと一緒に、地域で何かボランティア的なことでもできないかと。そんなことを考えているんです。町内の溝掃除なんかを、子どもと一緒に汗を流しながらできたらいいなと。自分の子どもの頃の話や親父に作ってもらった模型飛行機が宝物やったと、話したいと思っているんです。自分は一人で生きているんやない。生まれた時から、町内の人のお世話になっているんやから、「おまえもできることは、人のために感謝しながらせいよ。」と教えたいんです。
 ともだちをいじめてみたり、先生へ暴力をふるってみたり。何か、今の子どもは苛立っているように見えませんか。自分はこの世にたった一人、『もっと自分を大切にせんかい』。親にとっても、『かけがえのない宝物やで』と教えたいんです。それも一緒の汗を流しながら。これから生きていく世間は、競争だけやない。助け合っていきているんやね。それが『人の値打ち』やということを教えたいんです。地域でお世話になり、地域の人のために自分を役立てる。これを教えることが、『土曜日の親の仕事』やと思ってます。

昌友塾参加レポート
―南洲翁遺訓に学ぶ―


私は、自民党の青年政治大学校の懇親会で、西田先生が「昌友塾」を開催されていることを知り、今回はじめて参加いたしました。今回の昌友塾のテーマは「温故知新ー南洲翁遺訓に学ぶーでした。
私はボランティアに取り組んでおり、その際高齢者施設に行ったときなどに、習字の作品に「敬天愛人」という文字をよく見かけました。意味のわからなかった私は早速辞書でその言葉を調べてみて、その言葉のもつ意味の深さや、この言葉を座右の銘にしていた西郷隆盛という人間に興味をもちました。今回の昌友塾で西郷さんの子孫が初代京都市長だったことも初めて知りました。
私は今まで司馬遼太郎さん(司馬遼太郎さんの作品にも西郷隆盛はたくさん登場しますが)の愛読者でしたが今回「南洲翁遺訓」をしり、また新たな楽しみが増えたように思います。
 遺訓の冒頭に「いかにも心を公平に操り、正道を踏み、広く賢人を選挙し、能く其職に任ふる人を挙げて政柄を執らしむるは、即ち天意也。」とあります。今、府知事選挙が行われていますが、この言葉を考えれば、もっとも相応しい候補者が誰であるのかは明らかではないでしょうか。
 昌友塾は政治の話だけでなくこのように歴史の話もテーマにとりあげられることもあり、私にとって歴史の知識が深まることはとても幸せで癒される時間となりました。政治以外に興味のある人でも気軽に参加できるように思います。いつまでも「昌友塾」が続いていてほしいと思います。
野 田 知 子


編集後記
 「経済」とは『経世(けいせい)済民(さいみん)』の略だそうだ。「世を治め、民の苦しみを救うこと。」(大辞林)が本義で、『エコノミック』の和訳だったらしい。「不況で経済が振るわない」とか「人心の荒廃」は、やはり政治の問題が根本だと言う事だ。京都府知事選真只中。「主権在民」という言葉は辞書が不要なほど解っている。新しい知事の誕生は私たちの近い未来を決めてしまう。投票は重き責任。『経世(けいせい)済民(さいみん)』を預かっているのは今、私たち260万京都府民だから。
SHOWYOU編集室 松本秀次

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